玄洋社社史編纂会編『玄洋社社史』

玄洋社社史

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ディーコンは、玄洋社を「日本の諜報活動の本格的な海外支部として最初に生まれた」とし、「1882(明治15)年、玄洋社の幹部頭山満は、情報収集のため中国に100人の会員を送り込んだ」としている。まずはこれが『玄洋社社史』のどの記述に基づいているかを調べてみた。該当部分は、おそらく「第十六 玄洋社徐々外に対す」の「二 十五年朝鮮の変」であると思われます。長いですが引用してみます。

又朝鮮兵乱の後、宗像政中江兆民、長谷場純孝、栗原亮一、和泉国彦、末広鉄腸、樽井藤吉等大陸活動を企て、之を平岡頭山に謀る、頭山之に賛して曰く、
韓半島は古来我の同胞なり、流血の悲惨を与えずして之と合せざる可らず大を採れば、小は労せずして之を合す可く、招かずして来るべし、韓の小に向はんより若かず支那の大陸に於いて活動せんには」と、乃ち活動党の発するに当り、玄洋社員九十余名を之に加はへしむ、活動党が已に従ふる所は熊本相愛社員六十余名なり、之を思ふに、支那実に州四百民四万々人、当時東洋唯一の強国として自ら許すものあり、之に対して頭梁七人、志士僅かに百数十、之を以てして、支那大陸に活動すべしと為す、素より成る可きの事にあらず、恰も空中に楼閣を書くと異らずと雖も、其意気や賞す可し而もこの一行によつて、支那研究の端開かれ、彼の日支貿易の開拓、日本人にして支那開発の先輩と呼ばれたる荒尾精と頭山と相識るに至り以来刎頚の交あり。*1

活動党(熊本相愛社員約60人)に玄洋社員(約90名)を加えて中国大陸で「活動」したとある。空中に楼閣を書くようなものだとしつつ、中国研究はここからはじまったとしている。中国大陸への調査員派遣は、また次以降に出す先行研究において陸軍を中心に為されていたのは事実であり、それを研究と捉えるかは人によるかもしれないが、玄洋社が嚆矢であるとは言えないだろう。さらに言えば、一度に海外へ100人以上の人間が行くのは大事件であるため新聞に載ることは必定で、上海あたりの在外公館からその報告が来るはずであるため、これが実際にあったことであると確実には言えない。明治15年の史料は見てきたがそのような史料は今のところ見当たっていないので、おそらくこれは、玄洋社が自らを称揚するために行った記述であろうと推察する。

この推論を補強するために、

この2人1団体をチェックすれば事足りるだろう。

史料批判とは面倒なものだ。

*1:文中、強調点が付されていた箇所があるが、重要性は低いとみて除いた。