『情報史研究』第2号をざっとみてみる

ほぼ1年ぶりの更新です。大変ご無沙汰でございました。

刊行予定を過ぎてようやく刊行となった『情報史研究』第2号をざっと見まして感想的なものをつらつらと。

今回はアメリカ特集

『情報史研究』は、第2号より各巻ごとに特集を立てていくことになりました。そうすることで、今後、各巻ごとの特色をより明確にしていきたいと考えています。この第2号では、「アメリカの史料による情報史研究」を特集とし、二つの研究論稿を取り上げました。

http://intelhistory.org/journal.aspx

サイトの記載通りですね。

やはり第二次世界大戦以降がメイン

「二つの研究論稿」とは、大野直樹「政策決定過程におけるCIAの苦闘 ―CIAの情報評価文書とNSC68路線の推進過程―」および奥村元「研究ノート 第二次世界大戦期ドイツの極東における情報活動 ―アメリ国立公文書館所蔵の新史料の紹介―」ですが、タイトルからしてもやはり第二次世界大戦より後の研究が主軸になっているのがわかる。
逆に言えば、現在のところ第二次世界大戦より前、特に明治前期はブルーオーシャンですよ!

用語解説登場

また、今号から、必ずしも「情報史研究」を専門としていない読者に向けて、「用語解説」の欄を設けることとしました。第2号では、インテリジェンス研究の基本用語や著名な人物を選び、最新の研究情勢をふまえた解説を行いました。

http://intelhistory.org/journal.aspx

用語解説は本号からはじまりましたが、初学者には向いていません。その用語の成立と歴史的経緯が語られています。辞書だとか定義にはほとんど使えないでしょう。


今のところは上記の程度でしょうか。
4万字でヒャッハーしてる方がいらっしゃったり、イギリス留学中と思いきや終戦の日に有明の海辺に突貫していた方もいらっしゃるようでして、ひじょうに行末が楽しみな学術団体になりました。

そうそう、最後に。
少し前から、http://rokuhara.net/ にて、一次史料の翻刻などをやろうかと思っております(と言ってもまだまだ建設中ですが)。

中西輝政「創刊の辞 ―情報史学の発展をめざして―」

就職後、色々あって久々の更新です。

blogの更新途絶期間に、情報史の分野では大きな動きがありました。情報史研究会が機関紙『情報史研究』を創刊したことです。
(そういえばまだ『史学雑誌』の研究動向読んでない・・・)

「創刊の辞」で中西輝政氏が明示した情報史研究会の方針は以下。

情報史研究のアイデンティティ

  1. 情報史とは、情報史資料(情報組織の文書、またはそれへ直接言及した文書)を主要な根拠として歴史の過程を明らかにしようとする研究
  2. 情報機関とその活動、及びそれ自体の歴史的な変遷についての、学問的アプローチに基づく理解(前提)
  3. 歴史的なアプローチに徹することによる、学問としての中立性と客観性の確保
  4. 「インテリジェンス・リテラシー」を効果的に普及するための、歴史的な見地からの説明

情報史研究会の運営原則

  1. 内外政府機関と関わらないこと(助成を受けない、政府関係者の入会・寄稿は受けない)
  2. 公開された情報・資料しか取り扱わない
  3. 歴史研究に徹して政策には関与しない

ちょっとした疑問

慎重に慎重を重ねた原則ですが、少しだけ疑問が。

小谷賢氏は情報史の分野で業績のある方で、昨年には中西氏と共著『インテリジェンスの20世紀―情報史から見た国際政治』を発表されています。おそらく中西氏の教え子。
そのことは情報史研究会のサイトにも「2008年 会員による共著を出版。」と記されています。
しかし、小谷氏は現役の政府関係者(2008年は防衛省防衛研究所戦史部教官。現在は英国留学中)です。
これって、会の精神に反していないんでしょうかね……? 別に杓子定規に規則を当てはめるわけではないですが、人間関係によって例外が作り出されるというのは組織としては致命的だと思うのですが、どうなんでしょうかね。おそらく会員が政府関係者になってもそのまま会員を続けているだけなのでしょうけれど。

期待

創刊号は海外関連で記事が埋め尽くされていますが、第二号以降で日本関連の記事が読めることを期待しています。
私も個人的に明治初期の日本の情報活動を追ってみたいと思います。

村上勝彦「隣邦軍事密偵の兵要地誌」

間があきました。
ゼミでの発表と定期試験とバイトで忙しかったので……ちまちま続けたいと思います。

朝鮮地誌略〈1〉京畿道.忠清道.咸鏡道 (1981年)

朝鮮地誌略〈1〉京畿道.忠清道.咸鏡道 (1981年)

村上勝彦「隣邦軍事密偵の兵要地誌」
      (参謀本部編『朝鮮地誌略』1,竜渓舎,1981,復刻版への解題. 原書は1888)


おそらく現在までで最も詳細な、陸軍(参謀本部)の大陸における情報収集に関する先行研究。
村上氏は、陸軍の清国情報収集網の推移を3段階に分けた。


初期の密偵(1872〜1878)

情報の要求に応じた派遣。征韓論台湾出兵など。

隣邦密偵体制の確立(1879〜1883)

参謀本部発足。清国各地への将校駐在型。管理将校+駐在将校、派遣前の学習などシステマティックに行われる。

隣邦密偵体制の再編成・縮小(1884〜1889)

清国派遣の縮小・アジア他地域への派遣から、駐在将校の廃止へ(公使館付武官のみ)。



朝鮮地誌略への解題であるため、朝鮮での密偵の動き、そして参謀本部の地誌刊行の状況についても記されている。
村上論文が重要なのは、軍令機関の変遷と「密偵体制」の推移をあわせてみているところと、この分野における最初で最大の先行研究である、というところだろうか。

『中江兆民全集 別巻』

中江兆民全集〈別巻〉

中江兆民全集〈別巻〉

玄洋社の150人中国遠征の真相を探るべく、おそらく「頭梁七人」のうちの一人、中江兆民の動向を探ってみた。
手っ取り早く、全集の年譜を見たので、厳密には史料とはいえないのですが、これでいいかな、と思うので書いてみます。

1882(明治15)年12月11日、彼は熊本に到着し滞在、「相愛社・紫溟会・実学党の人々と会う」とあり、また24日には彼の一行の懇親会が開かれている。おそらく、『玄洋社社史』で記述されていたのは、この熊本滞在の間のことだろうと思われる。歳が明けてから、八代・人吉を回ったあと、1月10日に鹿児島を発して八代・人吉・鹿児島へ向かった後、4月中旬に帰郷するまでの彼の行動が記されていないので、一応は、彼がこの期間に清へ行ったとも主張できるのは確か。

旅券発行数というのも考慮に入れて調べたいと思います。

玄洋社社史編纂会編『玄洋社社史』

玄洋社社史

玄洋社社史

ディーコンは、玄洋社を「日本の諜報活動の本格的な海外支部として最初に生まれた」とし、「1882(明治15)年、玄洋社の幹部頭山満は、情報収集のため中国に100人の会員を送り込んだ」としている。まずはこれが『玄洋社社史』のどの記述に基づいているかを調べてみた。該当部分は、おそらく「第十六 玄洋社徐々外に対す」の「二 十五年朝鮮の変」であると思われます。長いですが引用してみます。

又朝鮮兵乱の後、宗像政中江兆民、長谷場純孝、栗原亮一、和泉国彦、末広鉄腸、樽井藤吉等大陸活動を企て、之を平岡頭山に謀る、頭山之に賛して曰く、
韓半島は古来我の同胞なり、流血の悲惨を与えずして之と合せざる可らず大を採れば、小は労せずして之を合す可く、招かずして来るべし、韓の小に向はんより若かず支那の大陸に於いて活動せんには」と、乃ち活動党の発するに当り、玄洋社員九十余名を之に加はへしむ、活動党が已に従ふる所は熊本相愛社員六十余名なり、之を思ふに、支那実に州四百民四万々人、当時東洋唯一の強国として自ら許すものあり、之に対して頭梁七人、志士僅かに百数十、之を以てして、支那大陸に活動すべしと為す、素より成る可きの事にあらず、恰も空中に楼閣を書くと異らずと雖も、其意気や賞す可し而もこの一行によつて、支那研究の端開かれ、彼の日支貿易の開拓、日本人にして支那開発の先輩と呼ばれたる荒尾精と頭山と相識るに至り以来刎頚の交あり。*1

活動党(熊本相愛社員約60人)に玄洋社員(約90名)を加えて中国大陸で「活動」したとある。空中に楼閣を書くようなものだとしつつ、中国研究はここからはじまったとしている。中国大陸への調査員派遣は、また次以降に出す先行研究において陸軍を中心に為されていたのは事実であり、それを研究と捉えるかは人によるかもしれないが、玄洋社が嚆矢であるとは言えないだろう。さらに言えば、一度に海外へ100人以上の人間が行くのは大事件であるため新聞に載ることは必定で、上海あたりの在外公館からその報告が来るはずであるため、これが実際にあったことであると確実には言えない。明治15年の史料は見てきたがそのような史料は今のところ見当たっていないので、おそらくこれは、玄洋社が自らを称揚するために行った記述であろうと推察する。

この推論を補強するために、

この2人1団体をチェックすれば事足りるだろう。

史料批判とは面倒なものだ。

*1:文中、強調点が付されていた箇所があるが、重要性は低いとみて除いた。

Richard Deacon "A History of the Japanese Secret Service"

A History of the Japanese Secret Service

A History of the Japanese Secret Service

日文研まで行って閲覧して参りましたよ原書を。
京都は桂にございます。京都駅から京阪バスで40分、という方法をとりました。26番に乗ったので、最寄は桂坂小学校前なのですが、終点の桂坂中央はすぐそこなので、桂坂中央で降りて坂をずっと登れば左手に見えてくる。実は、降り損なって終点で降りたら近くてホッとした。京都駅から290円。

日本の情報機関―経済大国・日本の秘密 (1983年)』の原書であるこの本には、少ないながらも注釈と参考文献リストがしっかり載っていました。中国語版も見たのですが、やはりこちらも注・参考文献リストを削っていて、よくもまあこんな翻訳が出来るな、と半ば呆れてしまいました。

とりあえず、前に取り上げた玄洋社についての記述のレファレンスは『玄洋社社史』のみだろうということがわかったので、次は『玄洋社社史』をとりあげてみます。

有賀傳『日本陸海軍の情報機関とその活動』

私の通う大学には所蔵がなく、暑い中(スコールも降った・・・)違う大学へ行って参りました。うへぇ。


日本陸海軍の情報機構とその活動

日本陸海軍の情報機構とその活動

関誠氏は「情報史研究のための主要文献紹介」にて「日本陸海軍の情報組織の変遷を終戦まで丹念に追った」「日本情報史研究者必携のハンドブック的著作」としていましたが、まさしくその通り。どのような組織を軍部が作っていたのかを、条例や内規などをふんだんに盛り込んで解説されており、さらに戦後残された旧軍の軍人のメモ等からその実態を簡単ながら追ったものです。しかしながら、活動が追えているのは、史料の豊富な日露以降、特に第二次世界大戦あたりが中心です。
この著書によれば、駐在武官(在外武官)制度が制度として確立したのは、陸軍が明治26年、海軍が同23年となっている。現在、研究では初期から陸軍の情報網形成が活発だった(というより海軍の研究がほぼ皆無)だけに、意外。一応自分でも『海軍諸例則』等を参照してみたい。